過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

衆罪は霜露のごとし 慧日よく消除す

うわっ。悪いことしたなあ。申し訳なかった。
傷つけてしまったなあ。ごめんなさい。

相手の痛みに気がついていなかった。
ということが、たくさんありすぎる。
なんかのときに、ひょこっと思い出す。

過去はもう取り消せないし、その人に会うこともない。
お互いに忘れている、忘れていた。
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ブッダのこんな言葉も思い起こす。

「愚かな者は、悪いことを行なっても、その報いの現われないあいだは、それを蜜のように思いなす。しかしその罪の報いの現われたときには、苦悩を受ける(ダンマパダ 69)

悪事をしても、その業(カルマ)は、しぼり立ての牛乳のように、すぐに固まることはない。(徐々に固まって熟する。)その業は、灰に覆われ火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、愚者につきまとう。(ダンマパダ 71)

灰に覆われ火のように、(徐々に)燃えて悩ましながら、つきまとうって、つらいことよ。
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そういうときは、南無妙法蓮華経でも南無阿弥陀仏でもいい。ひとつの真言マントラを唱えるのがいい。

「観普賢菩薩行法経」の次の経文が浮かんだ。

一切業障海 皆従妄想生 若欲懺悔者 端坐思実相
衆罪如霜露 慧日能消除 是故応至心 懺悔六情根

衆罪は霜露のごとし 慧日よく消除す(衆罪如霜露 慧日能消除)とある。
たくさんの罪、相手を傷つけたこと、恥ずかしいこと、慚愧にたえないことが、たくさんありすぎる。
しかし、それらは太陽が上ると、さっと消えてしまう霜露のようなものだ。

……と都合よく、解釈もできる。近頃は、ともあれ南無妙法蓮華経に打ち込みつつあり。それは、「端坐思実相」に通じると。