過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「水師営」と「君死にたまふことなかれ」

水師営」。乃木大将とロシアの将軍ステッセルとの会談の歌。80歳以上の人は、この歌をよく知っている。尋常小学校で盛んに歌われていた。おなじ時代の歌で、「桜井の訣別」(大楠公の歌)も、みなさん歌える。なので、施設ではよく歌のリードをする。きょうも歌った。
 
「二人の我が子それぞれに 死所を得たるを喜べり これぞ武門の面目」と、という乃木大将の言葉が歌われる。国家のために命を捧げることは尊い。戦場で死ぬことは誇りであると賛美する。
 
そんな時代のなか、与謝野晶子は「君死にたもうことなかれ」という詩を発表している。旅順で戦っている弟に対して、「死ぬな」と歌う。
 
旅順を奪うために、壮絶な二百三高地の戦いがあり、1万5千人余が命を落とす。その旅順の港が滅んでも構わない。天皇は、自分が戦場には行かない。若人たちに人を殺せと教える。獣の道に死ねという。だから、弟よ、死ぬな、と。与謝野晶子の肚のすわった力がつたわる。
 
この詩を持っているだけで、逮捕され拷問に遭うのが、戦時下(大東亜戦争)の日本であった。
 
君死にたまふことなかれ   
旅順口包圍軍の中に在る弟を歎きて
          
   與 謝 野 晶 子
 
あゝをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ、
末に生れし君なれば
親のなさけはまさりしも、
親は刃(やいば)をにぎらせて
人を殺せとをしへしや、
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや。
 
堺(さかひ)の街のあきびとの
舊家(きうか)をほこるあるじにて
親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ、
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
 
君死にたまふことなかれ、
すめらみことは、戰ひに
おほみづからは出でまさね、
かたみに人の血を流し、
獸(けもの)の道に死ねよとは、
死ぬるを人のほまれとは、
大みこゝろの深ければ
もとよりいかで思(おぼ)されむ。
 
あゝをとうとよ、戰ひに
君死にたまふことなかれ、
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは、
なげきの中に、いたましく
わが子を召され、家を守(も)り、
安(やす)しと聞ける大御代も
母のしら髮はまさりぬる。
 
暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻(にひづま)を、
君わするるや、思へるや、
十月(とつき)も添はでわかれたる
少女ごころを思ひみよ、
この世ひとりの君ならで
あゝまた誰をたのむべき、
君死にたまふことなかれ。