過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「どうやって死んでいくか」ということが、いつも話題になる

やはり「どうやって死んでいくか」ということが、いつも話題になる。
とくに高齢でひとり暮らしの人は、このテーマは切実だ。
 
もしものとき、どうするか、どうなるか。
そのためには、なにをしておいたらいいか。
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もしものときは、ぼくがだんどりしてもいいですよ。
この施設でお別れ会をしてもいいですし。
 
どんな葬儀にしたいのか、お墓はどこで、どのようにおくられたいのか。海洋葬でも樹木葬でも、パウダーにして畑にまいてもいいし。そのあたりを、生前に伝えておくといいですね。
 
じゃあ、池谷さん、そのときはお願いします。
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でも、死んだ後に、沢山の人が弔問に来てもあんまり意味がないと思いますよね。もっとも、友人の方は高齢で歩いてこられなくなっていますし。
 
いま元気なうちに、生前葬というのはどうですか。再来年は米寿でしょう。米寿の祝い=生前葬みたいな感じで。この施設をお貸ししてもいいですよ。
 
字が美しいので(全国の書道で金賞をもらったことがあるという)、お世話になった人に向けて直筆で文章を書いておくというのはどうですか。こちらにきたときに、せっせと書いておく。そういう過ごし方もいいかも。
 
もう86年も生きたし、それで十分。あとは、付録、余録と思っていますよ。生かせていただいている、それだけでも感謝と。
 
そんな話になるのだった。この山里で出会う人、立ち話すると、だいたいそういう話題になる。
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きょうは、「そばがき」を食べたくなって、ちかくのそば屋さんで、そば粉を買わせてもらおうと行ったところ、調子が悪そう。
あれ? どうしたんですか。
 
じつは、こないだ急に腸から大量出血して、トイレで気を失って救急車で運ばれたんだ。やっと回復したんだよ。きょうから、仕事の再開だ。
 
またある友人は、食道に穴が空いていたんだとか、腸にポリープできたとか、しょげていた。

また、きょうは利用者さんの夫が亡くなって初七日。お訪ねしたのだった。『法華経』の化城喩品の一偈を唱えさせていただいた。

老病死というものが、リアルに訪れる。老いの不自由さ、病のつらさが実感される。そこを受け入れて、かけがえのない日々を送らせてもらうということになる。