過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ああ、夢だったか。なあんてこともあるかもしれない。

毎日、夢は見ているのだと思う。でも、ほとんど忘れてしまっているのだと思う。
夢を見る時間は、目が覚めるちょっと前の浅い眠りのときじゃなかろうか。
夢からなんらかの暗示、メッセージをもらえるように思う。
ぼくは夢を解釈はしない。絵に描いたり、文章に記述していくことで、あとからハッと気がつくことがある。
このハッと気がつくことがたいせつ。
学問的な説や学者や専門家の解釈は、外れていたり、押し付け的なことが多い。自分ではっと気がつかないと、意味がないと思っている。
そうして、ハッと気がつくのは、何年か後だったりする。
----------------------
よく見る夢、というのもある。いつもの定番はこんな夢。
高い山の上から限りなく落下していく。あ、あぶないー。目が覚める。
結婚式の前の日、忘れて旅に出てしまう。10年くらいのんきに旅をする。はっと気がつく。あ、結婚式、わすれていた。目が覚める。
こないだ出てきたいつものパターン。
大きな大きな厚いコンタクトレンズ。それこそ洗面器ほどもある大きさ、厚みは30センチくらい。
これを目にはめないと、見えない。
無理して目に入れる。
ああ、入らない、入らない。どうしよう、どうしよう。それで、目が覚める。
-----------------
ゲシュタルト心理学的にいうと、「夢に出てきたものは全て自分」というとらえかたがある。
結婚式を忘れて旅に出るのも自分なら、忘れられてじっと待っている花嫁も自分。
コンタクトレンズをはめようとしているのも自分なら、その分厚いコンタクトレンズそのものも自分。
夢に出てきた対象としてのモノとか人を「それが自分だ」として、夢を感じていく。これがまた、いろいろと発見がある。
-----------------
この人生も、夢かもしれない。死んだ時、まさに、その時、はっと目が覚めて。ああ、夢だったか。なあんてこともあるかもしれない。
夢を現実として、生ききる。それが人生とも。