過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

そもそも「数える」って、どういうことだろう。

─お父ちゃん。お月さまを見に行こうよ。
「ああ、いいよ」。
またしてもリヤカーに乗せて、散歩に連れていく。湯たんぽとシュラフではさすがにあついので、あかりは大きなコットンのシーツ(インドで買ったやつ)にくるまった。
空にはぼんやりと半月が浮かぶ。河原では、野宿のテントがいくつか見える。キャンプファイヤーをしている。
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リヤカーを引いて歩いていると、あかりが聞く。
「お父ちゃん、1たす3はいくつ?」
─うーんと、4だよ。
「ぴんぽんぴんぽん」。
「2たす3は?」
─5だよ。
「ぴんぽんぴんぽん」。
あれれ、ちゃんとわかって、「ぴんぽんぴんぽん」って言っているのかなあ。聞いてみた。
─じゃあ、あかりちゃん、3たす2は?
……無言。
─あれれ?3たす2は?
また聞いた。すると、
「お父ちゃん、あかりちゃんが聞いているんだよ。お父ちゃんが答えるんだからね」。
そう言い返してくる。
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「1たす3は4」とおぼえていても、「3たす1は4」というのがわからない。
あるいは、「1たす1たす1たす1は4」というのもわからないのだろう。
無数のやり方で4という数が出てくる。そのことは、きっとわかってない。
頭の中は、「1たす3は4」に占領されているだけ。
すなわち、「数える」ことがまだわかっていないのかもしれない。
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じゃあ、そもそも「数えるって、どういうことだろう」。
「数える」とき、たとえば10個のまんじゅうがあるとしたら、目だけでは数えにくい。目だけでパッとカウントできるのは、3つか4つくらいまでだろう。
それ以上になると、ひとつひとつ指を折るとか指差すとか、うなづくとか、身体動作が伴わないと難しい。あるいは、頭の中でそろばんをはじくとか、頭の中で1つ2つと数えるとか。一対一対応というか。
そういうことをしないで、ただ目だけでカウントしようとすると、とたんに難しいことがわかる。
ともあれ、ひとつの答えに至る方法は無限にあって、いろいろなやり方で導き出しているわけだ。
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ここから論旨は飛躍する。
宗教というのも、いろいろな導き方、アクセスの仕方があって「これだけが正しい」「このやり方でないと駄目だ」ということになると、頭はそれにまったく占領されてしまう。
すなわち硬直した生き方になってしまう。それは、とても強固。しかし強靭ではない。いろいろな変化に対応できないのではないか。そんなことを感じた。
といって、ぼくのように、いろいろな方面からアクセスしようとすると、収集がつかなくなるということもあるわけだけれど。