過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

それぞれの戦争体験

デイの利用者さんとの語らいで、その方に即した「自分史」を作っていこうとしている。日々、深くかかわることになるので、それぞれの人生が面白い。
きょうは、戦争中の興味深い話。
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戦争中は、二俣の宿舎に暮らして女学校に通っていた。いまなら中学2年生のころだ。
あるとき、なんの説明も前触れもなく、突然、教室の机と椅子がなくなっていた。そこに、ミシンがずらりと並べられた。カーキ色の厚手の布がどっさりと置かれた。学校が、軍需工場になったのだった。
兵隊さんのための服を作るのが、毎日の仕事だった。授業料を収めて、世の中のことを学ぶはずが、そんなことばかりさせられることになった。
上級生たちは、豊橋の軍需工場に行くことになった。そこで、旋盤やら部品の製造に関わったという。
アメリカの戦闘機の機銃掃射で撃たれて逃げたこともあった。米兵の顔まで見える距離だった。
学校では、竹槍で米兵と戦う訓練をさせられた。
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そんな折、玉音放送があるというので、厳粛に聞いた。ラジオは雑音が多くて、陛下の言葉は難しくて、何を言っているのか、さっぱりわからなかった。
帰宅すると、父親が厳しい顔をして「お前、これから、しっかりしなくちゃいけないんだぞ」と言う。「どうしてですか」と聞くと。「あのな、日本は負けたんだよ」と聞かされた。日本が負けるなんて思っても見なかったから、たいそう驚いた。
けれども、内心嬉しかった。たとい非国民と言われようと、これで空襲がなくなる。平和になるんだと喜んだ。
学校に行くと、それまで並んでいたミシン、そして大量の布は跡形も無く消えていた。(池谷の思うには、軍需物資は横流しされて闇市に流れた。全国でそういうことがたくさんあった)
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学校の先生は、「教科書を出しなさい。いままでの教育は、間違っていた。○ページから○ページを墨で塗りつぶせ」と言う。
今まで習っていたことは何だったのか、ほんとうにバカみたいだ、なさけないことだと思った。
やがて、家の前に、ある男が暮らすようになった。なんでも、政界にすごく顔の利く人物で、大物なんだということを聞いた。その人が、児玉誉士夫だった。何度も顔をあわせたことがあった。(続く)