過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

実際に」「具体的に」「自分の身体が」「いまここで」それができるかどうか

弱い人に寄り添うのは、たいせつなこと。だが、「実際に」「具体的に」「自分の身体が」「いまここで」それができるかどうか。ということになると、これは別問題。
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この一ヶ月、デイサービス事業の継承のために、送り迎えの見習いをしてきた。

おばあちゃん(98才)を支える。クルマに乗っていただくためには、玄関からクルマまで腕を持って介助し、踏み台をセットする。そして、腰を支えて座ってもらう。さらに、シートベルトをつけて差し上げる。

ドアを閉める時には「はい、閉めまーす」。出発するときには、「出発しまーす」と声をかける。この「声かけ」はとても大切。相手の耳が遠くて聞こえなくても、行っている。

一人暮らしの方の場合には、鍵を締める前に、エアコンや電灯の点検。持参するバッグの中身も点検。そして、鍵を締めて差し上げる。

送るときには、玄関口、送る。鍵を開けて差し上げる。そして、玄関を開けて部屋の中に入るまで見届ける。そういうプロセスを体験してきた。
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施設内では、「あ、この人は、鼻水をかみたいんだな」「あ、そろそろトイレ行きたいんだろうな」「あ、塗り絵を探そうとしている」……などと意識が行く。手伝う。介助する。

こないだ公園で出会った目が見えなくなった方とのやりとりでは、娘さんのクルマまで腕を持って介助し、クルマのに乗り込むために、腰を支え、さらにはシートベルトをセットして差し上げた。それがまあ、自然とできるようになってきたかな。

だいたい、ぼくはぶっきらぼうだし、相手の動きに対して、どうでもいいという無関心な生き方をしてきた。ボーッと見ているだけ、あるいは関心がいない人生であった。

こうして、仕事を通してすこし身に付いてきたというのは、ずいぶんな変化である。この変化に自分でも「イイネ」「よしよし」を感じている。
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人の心の動きに対しての思い、気づき、身体的動作に対する注意深い観察と介助。

これは相手のためなんだけれど、じつのところ、「自分の心を育てる道」でもあるなと思う。自分の心が豊かになるというか、なんとなく余裕が生まれるというのか、愛が育つというのか。それは身体的な実感として感じられる。

ま、登山でいうと、たんにメンバーの一員として参加して歩くのと、リーダーとしてみんなを率いて登るのでは、まったく「心のありよう」がちがってくる。「立場を取る」ことによって生ずる変化というのは大きい。

いや。まだド素人なので、たんなる思い込み、たんなるちょっとした発見程度のものなのだが、いまそんなところにいる。