過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

夢幻能(むげんのう)

能でよくみられる夢幻能(むげんのう)というのがある。世阿弥が大成した。
旅人 (ワキの僧侶など)に、老婆や老夫が土地にまつわる伝説などを語る。そして、一転して、神・霊・精などになって、舞うというパターン。舞うことで怨念が解放されて成仏に向かうであるが。
河合隼雄さんの「影の現象学」から以下、引用。
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能に先シテと後シテというのがある。ワキ役の旅僧などが一人の女性に会う、これが先シテである。彼女がこのあたりに一人の女性が住んでいたなどと話をしてくれる。
ところが能の後半になると、後シテが般若の面などをつけて現われ、実は私こそ、その女性だったのだというわけで、怨念をこめた舞を舞う。
こんなのを見ていると、人生の後半というのは、「実は私こそ―である」という自覚のもとに、自分の舞を舞うことではないか、と思わされる。
「私こそ―である」という「―」のところに、何らかの元型的イメージがはいってくる。

そして、それがどのようなイメージなのか、それをどのように舞うかについては、まったく自分にまかされている。それによってこそ真の個性というものが打ち出されてくるのである。
このとき、分析家は相手がその課題としての元型的イメージを見出すのを手伝い、それと類似の元型的イメージを参考として提示したりしながら、その個性化の道を歩むことを助けるのである。その過程のなかで、分析家自身の個性化の過程がそれに大いに関連していることを見出すこともあろう。

ユングは人生の前半と後半の課題を相当に割切った形で提出したが、現在はそれほど明確なことは言い難いようである。
青年期であっても元型的な課題に直面しなくてはならない人もある。このような人は他人からは容易に理解し難い苦悩を背負うことになるし、本人自身も何のために苦しんでいるのかわからないときもある。
本人に自覚されるのは、ただ何もする気がしないとか、ただただ死にたいとか、体が重くて動かせない、などということである。
こんなときに、周囲の人が「怠けている」と判断し、叱責したりして自殺に追いこむこともある。このような人の場合、その元型的課題について、誰かがはっきりと意識することが治癒への第一歩となる。
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