過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

抑圧された北欧神話の神のオーディンの顕現としてのナチスの台頭

繰り返して読む本は、非接触型のスキャナー(オーバーヘッド読取方式)でスキャンして、PDFでGoogleDriveに保存。そして、Googleドキュメントで開くと、9割以上の精度でOCRでテキスト原稿にしてくれる。
それをエディターに入れて、大切な部分をゴシックにしたり色を付けたりして、あらためて読み直している。瞬時に「一覧検索」できるのがありがたい。この作業は楽しい。
いま河合隼雄さんの書籍にトライしてみた。以下、引用する。
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ドイツにおけるナチスの台頭を、ユングはこのような見方で見ていた。一九三六年に発表した「オーディン」というエッセイにおいて、ナチスの動きはキリスト文明においてあまりにも抑圧された北欧神話の神のオーディンの顕現としてみるとき、もっともよく理解されると述べている。
オーディンは荒ぶる神である。それはギリシャの神ディオニソスと同じく、人々を狂暴な群れと化し、本能のおもむくままに嵐のごとく荒れ狂わせる。本能の抑制に徳を見出すキリスト教は、これらの神を、ひづめをもった悪魔のイメージをかぶせて下落せしめてしまう。
しかし、長らく地下にひそんでいたオーディンが、千年以上も経た後にドイツ、国民の心の意識に浮かびあがってきたのである。
もっとも、それより早く、まったくの個人として、アンチ・クリストの動きをとらえたものはいた。ディオニソスに向かって、肯定の叫びをあげたニーチェがその人である。
しかし、ユングが指摘するごとく、「肯定を語り否定を生きた」ニーチェは一人で重荷を背負い狂気のなかに死ぬよりほかなかったのである。

(「影の現象学河合隼雄著、講談社学術文庫
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ある宗教が支配的になる時、それまで人々が信じていた宗教は零落されてしまう。それまでの神は悪魔のようなもの、あるいは道化のような存在にされてしまう。
たとえば、キリスト教が支配的になった時、ケルトやゲルマンの神々は、悪魔的なものとして零落させられる。
しかし、それらの神性は埋没神として、人々の深層心理の奥底に存在し続けるのかもしれない。
それらの零落され、埋没された神々(いわば人々の集合意識か)は、地面の裂け目から、すこしずつ姿を表し、やがて一気に噴出してゆく。
ドイツで言えば、ニーチェが哲学として「神は死んだ」と説き、ワーグナーは古代のゲルマンの神々を楽劇として、英雄的に登場させた。
そして、そのゲルマン民族の高揚心を集約して、ヒットラーが現れる。ヒットラーが象徴となってキリスト教的なヨーロッパ文明を破壊していく。そういうことか。
ま、ユングが言いたいのは、そうした社会現象ではなく、自我が抑圧してきた「ほんとうの自分」。いわばシャドー=影。その影は、抑圧され続けると、あるとき噴出する。狂気となって現れる場合がある。
人は、抑圧しているほんとうの自分、抑圧してきた影と「和解」しなくてはならない。そうしないと、いつか影の反逆、影の支配に遭うことなる、と。

 

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