過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

そのことが「起こった」に過ぎない。「起こるべきことが起こった」と

なにかが「起こった」。それは、そのことが「起こった」に過ぎない。「起こるべきことが起こった」と。

それは「全てが必然」として、受け止めることでもある。自分が引き寄せた現実、自業自得=カルマの完了(否定的なイメージがついてまわるが)ともいえる。

「起こるべきことが、いま起きている」のだから、「いま起きていることを全うすればいい」ということになる。

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予期しないことが起きた時、これはいけないとか、相手に悪いとか、うわっどうしよう、自分は被害者だ……とか、もろもろの反応がある。

けれども、そのものが「起きた」ときには、いま起きていることをまっとうするしかない。

いわば、その瞬間が、自分に与えられた役割である。だから、そのパートを、完璧にやる。 怒る場では怒ることをまっとうする。不完全にやらない。

病気になった、事故が起きた、なんにもしないで、なるがままにまかせよ、というとそうではない。やるべきことはちゃんとやる。そして、起きたことは起きたこととして、受け止めていく。

根底には、「起こるべきことが、いま起こっているのだ」という意識であること。

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こういう考えを進めていくと、「なにが起きようと、全てが必然である。だから、なにが起こっても大丈夫」というところになる。

そのことが、「カルマを完了させてしまう」ともいえるか。これを、抑えたり不完全にしておくと、根っこの部分で完了していない。ので、何度も似たようなことを繰り返す。起きたことは一度で完了するのがいいんだけれど、先送り、後回し、その場しのぎで済ませようとする。

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ただ、これは思考や論理では、言えることであって、ちゃんと腑に落ちているかどうか、そういう境地になりるどうか、そこが難しい。

そういう心、深い意識に至るには、どうしたらいいか。心を作るそれなりの実践とか行が必要だ。起きてくる現実と直面するには、とてもエネルギーが要ることなのだから。

ぼくは、いまきっとエネルギーが枯渇しているので、源泉につながるためにも、マントラ瞑想(いまは南無妙法蓮華経)に徹している。

ヴィパッサナーや坐禅も、静寂につつまれてすばらしいのだが、いまのぼくには「声の響き」というところが、エネルギーを生む実践のポイント。テーマは「声」。「声の響き」と。