過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

その弱き人こそがイエスそのものである

(2)牧師や司祭とやりとりをするようになり、いろいろ学びがあった

「神社・寺・教会カフェ」の企画を進行中。参加してくださるところがやっと確定した。その数37。あとは日程の内容の微調整中。

今回、新たに教会も参加してくれることになり、いろいろ学びがあった。

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その一つ。かれらの社会奉仕の活動にある。

エスの教えの一つは 「小さく、目立たず、貧しく、弱き者こそが私である」というところにある。

すなわち、イエスは「神々しく光り輝く偉大な存在」としてあらわれない。

いわば、どうしようもない鼻つまみで、軽蔑されるような弱い悲しい存在として現れる。乞食、ホームレス、飢えた人、病んだ人、だれからも見捨てられたような人として、あらわれる。

「その弱き人こそがイエスそのものである」というのだ。

その人こそがイエスとして尽くすこと。それが、イエスの教えである。インドのマザー・テレサなどは、まさにその道を歩んでこられたと感じる。

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そのあたりが、キリスト教の社会奉仕活動の背景にあると思う。

今回、参加してくださる教会は、礼拝以外にもいろいろ活動している。

たとえば、ホームレスのための炊き出し、外国人のための放課後学習、障害者のための自立支援、子どもたちを招いての聖歌隊、養護施設への慰問など、社会活動をしているところがたくさんある。(つづく)

その(1)http://d.hatena.ne.jp/ichirindo/20181206/1544082331