過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ありがうをよむ・うたう・響かせる

先日の講座に参加してくれた方が、立ち上がってありがとうの言葉で歌ってくれた。そしてパーリ語で慈悲のお経もなえてくれた。その響きが、波動がとても素晴らしかった。癒やされた。ほっと楽になった。ゆるんだ。
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「ありがとう」という言葉を清々しい声の響きにして、よむ。うたう。お墓の前でも仏壇でも、先祖供養でも。むしろお経よりもいいな。

いわゆるお経もいいのだろうけど、よむ人も聞いている人も意味がわからないわけで、それよりもちゃんと意味がわかる「ありがとう」っていいな。
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ありがとう、ありがとうの歌を歌う。生きていることはありがたい。生かされていることに気がつく。生かされている現実はとてもありがたい。そのことにありがとう。

自分の体に対してありがとう。家族に対してありがとう。先祖に対してありがとう。いただくいのちにありがとう。大自然に対してありがとう。生きとし生けるものに対してありがとう。すべてにありがたい。そしてありがとう。

この肉体、この暮らしそのもの、この現実を感謝していく。もうそれで十分じゃないだろうか。そのことが、本源的なエネルギーにつながる道なのかもしれない。
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古代の人、縄文の人たちは、祈りの言葉を発しなくても、暮らしそのものが感謝の暮らしであったのかもしれない。

身体感覚が研ぎ澄まされた暮らし。狩りをし木の実を採取する。火の周りを囲んで家族で食事し、火を眺めながらおしゃべりしていく。暮らしそのものが感謝と祈りにつつまれていたのかもしれない。

そういった原点に立ち返りやすい場としては、都会よりも山里の暮らしがいい。そこに山里暮らしの魅力がある。いのちの本源に立ち戻る、本当の自分に立ち返る場としての山里暮らし。そこに深い意味が出てくるのかもしれない。
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しかし、自分はというと、そういう暮らしをしていないわけで、まあとてもはるかに遠い。たどり着けないけれども。

ところで、ぼくが真似してありがとうの歌を歌っていたら、妻にうるさがられた。ちっともいい波動じゃないというのだった。