過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

新しい元号は「まほろば」とか「あしはら」とか、大和のことばに

のぞむべくもないけれど、新しい元号は「まほろば」とか「あしはら」とか、大和のことばにしてらいたいものだと思う。

元号は、いつも、中国の古典から引用してきている。たしか「平成」は、司馬遷の「史記」からの引用か。そういうありようは、いささか残念と感じている。

中国はといえば、日本に対しては古来から「倭」とよぶ。これは、やはり侮蔑の表現で、矮小の意味合いが含まれると思う。なよなよとか、従順とか、あるいは人間以下のように意味あいを込めているようだ。

中国は伝統的に中華思想だから、異民族に対しては、そういう軽侮した漢字を当てはめてきた。モンゴル高原を支配した遊牧国家に対して、蠕蠕(ぜんぜん)、匈奴(きょうど)とか。奴隷の「奴」をあててている。蠕蠕など、不気味なイメージを持たせている。

日本に対しては、邪馬台国などの「邪」をあてている。邪悪の邪だ。卑弥呼は、ほんらいは日御子あるいは日巫女とおもうのだが「卑弥呼」と。「卑しい」という字をあてている。

まあ、そんなわけで、新しい元号は、中国の史記礼記や春秋や詩経などから引いてこなくても、日本独自の古典、ことばから持ってくればいいと思うけれど。ま、元号というありよう自体も中国の影響だし、自分自身の名前も漢字ということで、中国から学んだものである。

ということで、政治も制度も宗教も文化も、多大な学びをもたらしてくれたのは中国。そして戦後はアメリカと。それはそれで、とてもありがたいこととは思いつつ、新元号は、やはり日本は日本独自のありようをしめす機会になればと思ったりもする。

中国に対して、反感と軽蔑心をもちながら、中国の古典からさも大切そうに重々しく、元号で示すという、ねじれをみてみた。