もっとも知られているお経。それは「般若心経」だ。般若(知恵)の心(エッセンス)のお経(ブッダの教えたもの)という意味になる。
短かい。唱えやすい。写経にいい。効き目と功徳がありそう。ということで、もっとも人気のあるお経だろう。
浄土真宗と日蓮宗以外では、よく読まれる。浄土真宗は、他力本願の教えなので、自力カラーの教えは遠避けられる。日蓮宗は、「法華経」第一で他の教えは、成仏できないという主義だからよまない。
「般若心経」は、いわば「大般若経」という膨大な600巻のエッセンス。さらにその「般若心経」のエッセンスは、「色即是空・空即是色」という言葉に集約されるか。
精神世界も物質世界も、ありとあらゆるもの(色)、それが「空」だという。「空」とは、実体のないこと。nothingnessあるいは、emptynessと。何にもない、空っぽ。かといって無でもない。
すべては生滅変化する、仮に和合している。すなわち、究極は実体がない。これは、素粒子論を探求していっても、固定的・実態のある素粒子は出てこない。
そうして、それらが存在するのはどうしてか。それは、自分に認識する能力があってこそ、である。認識機能としての大脳が破壊されたら、その人にとって、もはや世界は存在しえない。自分も存在しない(のかもしない)。
世界というものは、常住ではありえない。実体がない。すべて刻々と変化している。一つとしてとどまっていない。そうしてまた、認識する自分の心も刻々と変化している。
すべて変化している。変化しないものはない。ゆえに、苦しみとか悩みなんてものも、じつは実体がない、もともとない。そのように「般若心経」は説く。
しかし、はいそうですか、とは、ならない。苦しみとか悩みなんてものはないのだと言われても、現実の暮らしは、苦しみが多い。お金がない、病気だ、気力が湧かない。つらいよ、かなしいよ、忙しい。どうしたらいいんだということになる。
もとより「般若心経」、そうした凡夫に向けたお経ではないということもある。このお経は、いわば悟りの境地からの説であり、観自在菩薩が、般若波羅蜜(知恵の完成の境地)において、領解(りょうげ)したところの世界、である。
じゃあ、そんなことを理解できない凡夫はどうしたらいい。というところで、マントラ(真言、呪文)をしっかり唱えなさい。そうしたら、その境地がわかってくるよ。功徳も莫大だよ、と最後に教えている。
それが、お経の最後にある「羯諦。羯諦。波羅羯諦。波羅僧羯諦。菩提薩婆訶。」という呪文である。呪文=真言=マントラである。
ちなみに、このマントラは漢字に音写されたもので、原語のサンスクリット語では「ガテー・ ガテー・パーラガテー・パーラサンガテー・ボーディ・スヴァーハ」である。
まあしかし、それを何百万編も唱えたからといって、「色即是空・空即是色」の境地に至るのかどうか。どんなマントラであれ、そのものになりきって、唱えつづけていくことによってある種の「空」の境地に至るのかもしれない。
これは、実際に起こってみないとわからない。それは行くところではなく、むこうからやってくるものかもしれない。やってきたら、なあんだそういうことだったのか、それしかなかったのだと、はじめて領解するのかもしれない。そうして現実は変わらないのかも……。