過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

子ゆえにこそ、よろずのあはれは思ひ知らるれ

「子ゆえにこそ、よろずのあはれは思ひ知らるれ』(子どもがいるからこそ、よろずのあはれ=趣、哀しみ、共感、を知ることができる)

むかし読んだ「徒然草」の一節が浮かんでくる。

子育ては、すごくたいへん。でも、学ぶことはたくさん。とくに人を愛することを学ぶというところ。なにしろぼくは、人生でもっともたいせつなこの基本を疎かにしてきたような気がするのだった。

育は親育ち、と。痛感。もっと若い時に育てればよかったんだけれど。みんなが下山して、やれやれとのんびりしているとき、無謀にも、さあこれから富士登山と。いや、エベレスト登山級かなぁ……。大丈夫かなあ。そんな心境。

徒然草」の一節を引用してみる。吉田兼好の言いたいことは、じつはこの後段にあるのだが、長くなるので割愛する。
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心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。ある荒夷(あらえびす)の恐しげなるが、かたへにあひて、『御子はおはすや』と問ひしに、『一人も持ち侍らず』と答へしかば、『さては、もののあはれは知り給はじ。情なき御心にぞものし給ふらんと、いと恐し。子故にこそ、万のあはれは思ひ知らるれ』と言ひたりし、さもありぬべき事なり。恩愛の道ならでは、かかる者の心に、慈悲ありなんや。孝養の心なき者も、子持ちてこそ、親の志は思ひ知るなれ。 (第142段)
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心がないかのように見える者でも、よいことを言うものだ。東国の荒武者で恐ろそうな者が、かたわらの人に向かって、『子どもがおりますか?』と聞く。その人は『子どもは一人もいない』と答えた。

すると荒武者は「それでは、物の哀れさを知らないでしょうな。情愛のない心というのは恐ろしいことです。子どもがいるからこそ、よろずのあはれを知ることができるものです」と言った。

たしかにそうであろう。恩愛の道があればこそ、このような荒くれ者にも、慈悲の心が涌くものだ。親孝行の心を持たない者でも、子どもを持つことで、親の心を思い知ることができるのだろう。