過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

無上宝珠不求自得と究境方便

「無上宝珠不求自得」(むじょうほうしゅ・ふぐじとく=無上なる宝珠、求めずしておのずから得たり)

この上ない最高の宝物。壊れることのない輝く素材。それが、求めもしないのに、自ずから得ている。

これは、『法華経』のなかにある言葉だ(妙法蓮華経 信解品第四)。仏という究極の真理、それはおのずとわが生命にある、という意味でもある。

あかりをみていていつも思う。このうえない宝物。それは求めずして、授かった。神さまのはからい。宇宙のはからい。まあ、ぼくたちには、たいへんな試練なんだけど。ともあれ、宝珠そのもの。

この人生、足りないものばかり。得られないものばかり。それを得ようとして努力する、苦労する、疲れる。そして、得られない。つらい。

しかし、もとより「得ている」。この上ない宝物を得ている。おのずと得ているのだ。

まさにこの自分自身という生命がそうだ。こうして生かされているという現実がそうだ。

そして、妻がいる。あかりがいる。仕事がある。友がいる。どうにか暮らしていけている。家もある。土地もある。健康もある。美しい自然がある。そうしたありがたい現実がある。もちろん、先行きは不安ばかりだけれども……。

幸福を外に求めたって得られやしない。求めるというのは我執だから。我執から得られたものは、また飽きて次のものに向かう。それを繰り返して人生は終わる。

それが苦(ドゥッカ=いつまでたっても不満足 unsatisfaction)という意味だ。それが仏教の教え、と。そういう見方もできるか。もとよりまだ、たしかな実感はない。

そうして、求めよ求めよ。追い求めよ。頑張れ。働け。そういう生き方もある。これはある意味では、「究境方便」(方便を究竟と為す)「化城即宝処」(化城がすなわち宝処なり)ともいえる。こちらは、いわば密教のとらえ方だ。これもまた真実と思う。