納得できる死を「創る」にはどうすればいいか…… 以下は、柳田 邦男さんのインタビューを、池谷が勝手に抜き出して要約したもの。
死んだ後、いったい自分はどこへいくのか。あの世があるのかないのか、ということを問うても答えはない。しかし、人間の精神性という次元で考えれば、答えは意外と簡単に出てくる。
亡くなった本人が人生の最後に自分らしい日々を送れたとき、そして家族がその最期に十分かかわれたとき、家族は<ものすごく良い看取りだった>と感じる。
旅立った人が残してくれたすばらしい「心の財産」が家族を支えてくれる。
自分の精神性のいのちは、肉体が滅びても消滅していない。大切な家族の心の中に、自分がずっと生き続けている。
僕にとって、父親は生きている。父が最期に手を握ってかけてくれた言葉、その表情、そして静かに眠るように旅立っていって死に水をとったこと。
そうした思い出がすべて、僕の心の中で鮮やかな情景となって残っている。ということは、僕の中で父は生きている。
不思議なことに、死ぬと精神性が残る。しかも年に数回会うだけの関係性ではなく、絶えず心の中で生きていて何か大事な出来事があれば、親の生き方や言葉がよみがえってきて、道しるべになってくれる。
人生の後半になると肉体は老化し、死ねば滅びてしまう。しかし精神は滅びない。老後、あるいは病気になってからの方が、精神性のいのちは成長・成熟を続け、しかも成熟を目指した生き方は、遺された人の人生を膨らませてくれる。つまり人間の精神は、死後も成長し続ける。
そう考えると、本当に納得できる最期の日々を送らなければならない。最期をよりよく生きることが“死後の未来”につながるという希望さえ湧いてくる。
自分がどう生きるかということを考えたとき、愛する人がいようといまいと、自分の内面と生き方をたえず見つめるなら、人生をきちんとまっとうできる。僕はそれくらい腹の据わった精神性を持ちながら最期の日々を送りたい。