過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

創価学会が信仰している本尊(通称、板漫荼羅)の真贋論争に決着をつける本

(1)「創価学会に喧嘩を売りましたね」。久しぶりに町の風呂で出会ったTさんから言われた。ブログを読んでくれての感想だ。

いま本の企画をしている、と書いたからだ。それは、創価学会が信仰している本尊(通称、板漫荼羅)の真贋論争に決着をつけるものだ。

「漫荼羅」とは、日蓮のあらわした理想的な宗教世界。南無妙法蓮華経を中心に、諸仏菩薩、諸尊などが文字で表されている。それを板に彫りつけたものなので、「板漫荼羅」とも呼ばれる。日蓮正宗信徒、創価学会員にとっては、究極の信仰の対象である(あった)。

創価学会の目的は、この「板漫荼羅」を世界の人に拝ませたい、それが日蓮の遺命である、というところにあった。

そこで公明党を作り、国会の議決で祈願する殿堂を作る。万民が礼拝すれば、世界は平和になるという考えだ。

そこに掲げる本尊こそ、この「板漫荼羅」であった。さらには、「板漫荼羅」を掲げる正本堂を建立するために、会員から400億円を超える寄付(いまの貨幣価値にすると10倍以上かも)を募った。後に、日蓮正宗によって破壊されたのだが。

いま企画している本は、「板漫荼羅」がじつは後世の作、すなわちニセモノであった。そのことを誰が見ても明らかに示す、というものだ。著者はSさんである。

こう書くと、やはり創価学会に喧嘩を売っているみたいだ。ところが、創価学会は、もはや問題にはしない。むしろ、ありがたいと思っている、のだと思う。なぜか……。

(2)創価学会が信仰をおいていたのは、日蓮正宗である。その総本山は、富士大石寺である。しかし教義の逸脱を指摘され(あまりに池田本仏的な動きになってきたから)、破門されている。いまも敵対し罵倒しあっている。両者の修復の可能性はまったくない。

とはいうものの、富士大石寺にある「板漫荼羅」こそが信仰の中核であり、絶対であり、真実であると訴え続けてきた。そうして、その会員数が公称800万世帯にもなったわけだ。

その日蓮正宗はもはや魔の勢力となって堕してしまった。そこにある「板漫荼羅」を拝することなど、ありえない。いまや否定しなくてはいけない。

ということで、この本は創価学会にとっては、援護射撃になるのかもしれない、というわけだ。

(3)では、創価学会員は何を信仰の中核としていくのだろうか。

創価学会は、4年前、次のように教義を変更したのだった。

板漫荼羅も、それを複製した漫荼羅も、すべて究極の本尊である。板漫荼羅のみが 「本門の本尊」だという教えは、日蓮の仏法に違背する。(2014年「創価学会 教義条項」:池谷の要約)

それまで究極としていた「板漫荼羅」は、数ある本尊の一つ。ワン・オブ・ゼムとしたのだ。「板漫荼羅よさようなら」ということだ。

しかしだ。会員の気持ちはどうか。なにしろ、創価学会の設立時点から、「板漫荼羅」を本尊としてきたわけだ。会員はにわかには納得しがたい。

そこで、「板漫荼羅」の風化にかかる。……ああ、あれはそれほど大したものじゃない。漫荼羅は、みんなおなじだよ。創価学会が独自に印刷した漫荼羅も、まったくおなじ功徳があるんだ。もしかしたら、ニセモノ? それだってありうること。

もちろん本尊がたいせつ。しかし、日蓮の教えを現代に弘めているわれわれ創価学会こそが、仏なのだよ。自分たちこそが究極の存在だから安心していいよ。……そういう路線になるんだと思う。自分たちは「創価学会仏」と言い出している。

(4)ということで、この本の企画は、いまの創価学会路線に援護射撃を行うことにもなるかもしれない。

しかし、創価学会と対立する勢力。日蓮正宗法華講妙観講、そして顕正会などは、そうはいかない。板漫荼羅を否定するとは、ゆゆしきこと、けしからん。そういう思いはあると思う。

あるいは、まったく話題にもならず無視されるか……。もう旬は過ぎた。10年、いや20年遅いのかも。そもそも出してくれる出版社があるのかどうか。