過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

古代インドのヴェーダ哲学の講座

インドのリシケシでサンスクリット語(古代インド語)と「ヴェーダ」の哲学を教えているMedha Michikaさんが来日。その講義風景だ。ヨガるりさんの主催。自遊空間小倉ホール(浜松)にて。

ヴェーダはものすごく難しい。池谷の解釈でかいつまんで書くとこうなる。

宇宙の本質(ブラフマン)と自己の本質(アートマン)とは、究極において同一性である。究極なるもの(イーシュワラ)は、あるがままで至福に満ちている限りなき喜びの状態(サット・チット・アーナンダ)である。

saccidānandaすなわち、sat(あるがまのもの、存在)とcit(心、Consciousness)とānanda(至福にみちている)。

そこから宇宙が生成される。なぜ生成されるのか。そこは究極存在の、ゆらぎといおうか、リーラ(戯れ)といおうか、マーヤ(幻)といおうか。

とまあ、まあかくのごく難解なウェーダの講義に、こんなにたくさんの人が集まった。ヨーガを修している方が多いようで、女性が多かった。

こないだ投稿した「華厳経」の「唯心偈」には、「心と仏と衆生と三つの差別なし」とある。すなわち、「こころ」「いのち」「宇宙」は一体と。ここにおいて、ヴェーダと華厳の哲学は通底していると感じる。インド哲学の土壌のうえに仏教が成立しているのだから、当然だとは思うが。

インドでは、各地にいろいろなアシュラムがあって、こういうようなヴェーダの哲学、そして儀式、セヴァ(奉仕)がなされている。外国人であっても参加できる。滞在費もほとんどかからない。

こういう心の宇宙の本質、自分の心のありようを探求し、解脱に向かおうとする人には、インドでは学びと修行の場がたくさんあるのだ。そこがインドの楽しいところ。

古来、インドでは人生の晩年において、すべてを捨てて出家してしまう人たちがいる。文字通りの「出家」だ。家などない。山林や道端で寝る。そして、聖地を遊行する。おそらく何百万人といる。そこがインドの精神大国のものすごいところ。

そうした人々によってヴェーダはよみつがれ、儀式が伝えられてきたということもできる。

Medha Michikaさんとは、Facebookでやりとりしているので、お会いしたかった。「あかりちゃん(うちの子 2歳)可愛いわね」と声をかけていただいた。

こうして山里に暮らしていても、世界に友人がいて、日常的なやりとりができる。そのことが当たり前になった。ヒマラヤにも南米にもアメリカにもスペインにも。Facebook、すごいものだ。