経済学で「比較優位」というのがあるらしい。リカードが提唱した概念だそうだが、そのことを論じたいわけではない。
ま、「自分にとって優位な分野でこそ勝つことができる。なので、そこに集中せよ」という程度の意味あいで、いま使う。
言いたいのは「比較劣位」が、むしろ「比較優位」になるうる、ということ。
過疎高齢の不便な山里に暮らしている。この歳で子育てしている。先行きはまったく安定していない。田んぼ作り、農業などうまくいってない。いろいろうまくいってない。
そういうことは「比較劣位」にあるといえる。で、そのことを「比較優位」にしていくというのが、ひとつの文章を書くについての軸にしている。
失敗した。だめだった。苦労している。うまくいってないという現実。たいへんだあという日常。それらをテコにして書くということになる。
たまに、政治やら法律のことを書くこともある。日米地位協定とか、敗戦の後遺症、あるいは平和憲法とか。でも、そういうことをいくら書いても、自分の暮らしのありようがでていなければ、たんなる評論家のような文章になる。
劣位ことが優位になる。説得力を増す。そういうありようを見ているところ。