過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

そこが極楽、いまを極楽ときめて。しかし、長続きはしない、と。

山里に7年近くも住んでいると、はじめのころの新鮮な感動は、もはやなくなってくる。

星がきれい、空気がいい、川で泳げる、広い畑に田んぼ、森。素朴で人柄のいい村人たち。田舎に移り住んだ家族を取り上げるテレビ番組の「人生の楽園」みたいな日々。

というのは、最初の数年だろうな。

やはり暮らしが不便。子供の教育に困る、年取ったら病院が遠くてたいへん。村人もいい人ばかりじゃないし。祭やら葬式やら集会やら、わずらわしいことがある。文化的なことがない。森も大したことない。空気も水も星もきれいという感動なんてなくなる。

「池谷さん、そろそろ都会に戻ってくるころじゃないかと思っているんだけど」。親しい友人たちはみんなそう言う。たしかに都会はいいね。気楽な人間関係、知的な好奇心を滿足させる語らい、コンサートも絵画も一流のものに出会える。買い物は便利。

まあ、理想的には2点居住。都会と山里を半々で行き来して暮らす。さらにいうと、冬はバリ島かインドに滞在する3点居住。ま、資金がないのであり得ないことだけど。理想的にイメージしてみた。

しかしだ。どんな理想的な暮らしがあったとしても、たぶん飽きてくるぞ。当初の感動、新鮮さは薄れてくる。あたりまえになってくる。そして、欠けているものに焦点を当てていく。不満が出てくる。

なにをやっても、これはおんなじ道をたどるんだと思う。もしも天国や極楽浄土があったとしても、おんなじような道をたどるのかも。すぐに飽きてしまうよ、きっと。それが人間のありようかな。

ということで、この日々の暮らし、この土地、この人間関係、そこを感動的に生きていくことしかないのだろう。どんな場所にあっても。そこが極楽、いまを極楽ときめて。しかし、長続きはしない、と。(続く)