過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

安祥として死を迎える。そのことに安心を与えられるお寺であることに意義が

「こんなエンディングノートをつくりましてね。檀家さんと勉強会しているんですよ」と冊子を渡してくれた。

自らの死を悔いなく迎えるための準備ノート。それは、いましっかりと生きるためのものでもある。

よりよい生き方のためには、仏教の教えというものは、とても役に立つ、支える力がある。死を受けいれることにおいても仏教の教えは支えになる。そのように住職は言っておられた。

仏教はほんらいは生きている人のためのもの。葬式仏教が本義ではない。けれども、日本の仏教の実情は、個人の供養が軸になっている。

しかし、こうして自分の死という現実を見据えて、いまを生きる。そのための手助けをするのがお寺のありようでいいのかもしれない。安祥として死を迎える。そのことに安心を与えられるお寺であることに意義がある。

臨済宗方広寺派の宝珠寺さんを訪ねた。稲垣住職はいつ訪ねても、あたたかく迎えてくれる。そのときのことだ。

お寺というと、なにか用事がなくては訪ねることはない。そして、お寺に用事があるのは法事とか墓参りくらいだ。ところがこうして、とくに用事がなくても、ちょっと寄らせてもらう。そして、よく来たねと迎えてくれる。そういうお寺があるのがありがたい。

これは「神社・寺カフェ」というイベントを2回、企画したことで、親しいお寺ができたことによる。訪れるたびにまた、あたらしい企画が浮かんでくるのだった。