過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏壇の風景のつづき

仏壇の風景のつづき。宗派によって、いろいろと祭り方はことなる。ざっくりいうと、一神教的なものと多神教的なものによってちがう。

一神教グループとしては、たとえば創価学会日蓮のあらわした十界曼荼羅だけが本尊。それ以外の仏菩薩などは、絶対におかない。

学会員は、十界曼荼羅にむかって、日々拝む。そうして、位牌は脇役だ。十界曼荼羅には、あらゆる諸仏、菩薩、諸尊、八幡神天照神も配置されている。なのでそれを拝むことは、すべてを拝むことになる。南無妙法蓮華経の威神力に照らされて、かれら諸仏・諸尊たちがほんらいの働きを発揮するという考え方だ。

もうひとつは、浄土真宗。弥陀の本願力によってのみ救われるとする宗派なので、阿弥陀さんだけ。安置されるのは、阿弥陀さんの像か図像、あるいは南無阿弥陀仏の名号の掛け軸が主体で、位牌は脇に置かれる。ほんらいは、阿弥陀という無相の本尊こそがたいせつで、有相の本尊にはそれほどこだわらない。

多神教グループとしては、真言宗天台宗日蓮宗など。日蓮宗の場合、漫荼羅と日蓮の像、四菩薩、釈迦仏、多宝仏、大黒さん、七面稲荷、清正公などが置かれたりする。

真言宗は、漫荼羅もあれば空海の像、お不動さん、観音さんといろいろと置かれる。理屈的には、どのような諸尊であろうとも、すべてこれ大日如来のあらわれである。深秘でみるとすべてが大日如来。なので、まあなんでもオッケーともいえる。