過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

そのま死んでしまったら、来世は地獄かもしれないと

死の瞬間に、どういう境地にあるのかによって、来世のいわばステージがきまってしまう。死は人生の集大成であり、次の生のスタートとなる。なので、死の瞬間の心こそがもっともたいせつである。

そう信じている友人がいた。かれは熱心な仏教徒だ。日頃から、ブッダの教えを信奉している。そのかれが、心筋梗塞になった。さいわい病院の中だったので、九死に一生を得た。あの世に逝く寸前に助かった。

まさにこれで「一巻の終わり」という時だ。その瞬間、ある光景があらわれた。それは、まばゆいばかりの光でも神々しい仏さまでもうつくしい花園でもなかった。なんと黒い雲だった。不気味な黒い雲が、モクモクと湧いてきたのだった。

かれはあとで深く反省した。そのま死んでしまったら、来世は地獄かもしれない。なぜ、あの死にゆかんとする瞬間「南無釈迦牟尼仏」と念じられなかったのか。ああ、おれは修行が足りない。そう深く反省した。

もはや心臓はよくない。いつあの世に逝くのかわからない。いまのままの生き方じゃ、どうなってしまうのかわからない。このまま死んだら、おしまいだ。

よし、修行に打ち込むぞ。その途上にあって、死んでもかまわない。悟りを達成するのは難しいのであるなら、修行のさなかに死んでこそ、救われる。来世もまた、修行者として打ち込めるじゃないか。来世はお釈迦さまのもとで、正しい教えをうけながら、修行に励める。だから、修行しよう。

そう決意したのだった。そうして、ミャンマーに出向いて、ひたすら瞑想修行に明け暮れる日々となった。