過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

日本古来の霊魂観、宗教観こそが、千の風か

やまとは 国のまほろば たたなづく 青垣  山ごもれる やまとし うるわし

英雄、ヤマトタケルの最期のことばである。各地を転戦しやがて力尽きて亡くなる。ヤマトタケルの魂は、一羽の白鳥となって天を飛翔するのだった。

ヤマトタケルの訃報に接し、おおくの人が嘆き悲しむ。とそのとき、陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がる。そうして、大和のほうへ飛んでいった。そう「古事記」にある。

これこそが、日本古来の霊魂観、宗教観といえるのかもしれない。そんなことを思った。

遺骨を大切にして、お墓参りをする。お寺に行き、お坊さんに来てもらい盆や彼岸をたいせつにする。それが伝統的な先祖供養のありようと思われている。

しかし、それはそんなに古い習慣ではないようだ。たかだか数百年。きっかけは江戸時代にできた寺請制度。日本人全員がどこかの寺の檀家となり、仏式の葬送が義務付けられるようになる。彼岸にはお寺に行き、家族が死んたらかならずお坊さんに伝えて、葬送をしてもらう。

その風習が300年余に渡っているので、それがあたかも、日本人のもともとの宗教感であり、先祖供養の本質と思われているのかもしれない。

ほんらいの宗教観、霊魂感は、もっと自由なのかもしれない。死して魂は自由に天を飛翔し風に舞い、故郷の山々に鎮まる、と。

そう思う時、「千の風になって」の原詩は、底通するものがあるように思う。この詩は、お坊さんや墓石業者は嫌うかもしれない。自らの暮らしの基盤を揺るがすことになるからだろうか。けれども、こういう心こそ、宗教心の源泉となっているのかもしない。

Do not stand at my grave and weep

わたしのお墓に佇み泣かないで。
わたしはそこにはいない。わたしは眠らない。
わたしはふきわたる千の風
雪上のダイヤモンドのきらめき。
豊穣の穀物にそそぐ陽光。
おだやかな秋雨。
あなたが朝の静けさの中で目覚めるとき
わたしは翔け昇る上昇気流となって
弧を描いて飛ぶ静かな鳥たちとともにいる。
わたしは夜に輝くやさしい星々。
わたしのお墓に佇み嘆かないで。
わたしはそこにはいない。
わたしは死んでなんかいない。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there. I do not die.