過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

お寺は先達としての役目があるんじゃあないか

お寺関係の書き込みを続けている。書いているうちに、いまの日本仏教否定の方向にいきやすい。ぼくの立ち位置というと、難しい。

ひとつは、「ブッダの教え・生きざまという原点」からみていく。仏教は生きている人のための教えである。暮らしの中で悩みと苦しみ超えていく道である。死者の供養が本義ではない。そこにフォーカスすると、いまの日本仏教はたいがいが否定されてしまう。

次に先祖供養のこと。仏教の本義は生きている人の教えといっても、「死者の供養、先祖供養はたいせつなんだ」ということがある。じゃあ、どうしたらいいのか。

それは、葬儀も法事も、ほんらいは遺族がすればいい。お坊さんは必ずしも必要ない。ましてや戒名など無意味だ。墓ですら必要ないかも。暮らしの中で日々供養できること。その道を開いていくのがたいせつ、という方向がある。

これもすすめていくと、いまの日本仏教はダメだ、お坊さんは必要ないという論調になっていく。そうなると、お寺は衰退していく。お坊さんが食えなくなってくる。

しかし、お寺そのものは、歴史的に仏道や伝統の継承、地域の拠りどころとしての価値があった。もちろんお坊さんが執り行う、葬式や法事も深く意味のあるところだ。えらそうに、それを真っ向から否定するつもりはない。

で、ぼくの考えるところのお寺の仕事。それは、なんといっても、仏教を継承しているのだから、ひろく仏道を伝えてもらいたい。そうして、お寺は公益法人なのだから、やはり地域の拠りどころとなってほしい。ぼくがすすめてきた、「神社・寺カフェ」の企画はその趣旨にのったところ。

そして、お寺は仏道の先達という意味合いがあると思う。先祖供養ということでいうと、先に述べたように、ほんらいは遺族がすることと思っている。しかし、供養のありよう、供養の仕方がわからない人がいる。お寺は、それを教えていく。各人が供養できるように、指導していく。お寺はそうした先達としての役目があるんじゃあないかと思う。