過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

祓った汚れや穢れは、どこにいくのだろうか

神道には大祓(おおはらい)の儀式がある。罪穢れを祓う浄化の儀式だ。漢文のお経とは違ったあじわいで、大和言葉の響きも心地よいので、たまによむ。

知らず知らずのうちに犯したであろう罪や過ち、心身の穢れを、となえることで清められるような、気もしてくる。

ところで、祓った汚れや穢れは、どこにいくのだろうかというと、ちゃんと処分してくれる神様がいる。祓戸大神(はらいどのおおかみ)という。

瀬織津比売(せおりつひめ)は、もろもろの禍事・罪・穢れを川から海へ流してしまう。速開都比売(はやあきつひめ)は、海の底で待ち構えていてもろもろの禍事・罪・穢れを飲み込んでしまう。気吹戸主(いぶきどぬし)は、 根の国・底の国に息吹を放ってしまう。速佐須良比売(はやさすらひめ)は、根の国・底の国に持ち込まれたもろもろの禍事・罪・穢れをさすらってしまう、ということになる。

まあすべてを水に流してしまう。海に流してしまう。土に埋めてしまう。すると、あとは神様たちがすっきりと処分してしまうという考えだ。たしかに、もろもろのゴミ、汚れは海や土にに捨てれば、希釈されていくし、清まっていくような気がする。

しかし、放射能はどうなんだろうか。福島原発放射能汚染は、まだ止まらない。どんどんと海に垂れ流していている。希釈されていくのだろうけど、それにも増して、放射能は出ていく、流れていく、広まっていく。

まあ、あとのことは知らないよ。そのうちなんとかなるさ、なんとかなるものだよ、とそんなあいまいな気持ちでいる。それでいいのだろうか。いいと思わないが、仕方がない、どうしようもないとして暮らしている私たち。