過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

『法華経』に出てくる「惟忖」ということば

法華経』(1)近ごろ有名になった字が「忖度」。「忖」は、相手の気持ち、相手の胸の内、そっと推しはかるというように意味になる。

たまたま今朝、『法華経』を序品から読んでいて、「忖」の字が出てきた。「惟忖」と使われる。「ゆいしゅん」と読むらしい。相手の心の中をそっと推し量る、というような意味だ。

こんなふうに書かれてある。「我が惟忖するが如き、今仏世尊、大法を説き、大法の雨を雨らし、大法の螺を吹き、大法の鼓を撃ち、大法の義を演べんと欲するならん」「是の故に惟忖するに、今日の如来も当に大乗経の妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念と名くるを説きたもうべし」と。

道元の『正法眼蔵』の「法華転法華」の巻にも、「文殊の惟忖すみやかに彌勒に授記する法華転あり」とあるが、この『法華経』の箇所から展開しているのだ。

お釈迦様が深い瞑想に入って心身が動じない。黙念として一言も発しない。けれども、大地震があったり、天から花が舞い降りてきたり、三千世界が百光で照らされたり、ものすごい現象が起きている。

いったい、なにごとか。なにかはじまるのか。なんだろうと、その場にいた何億、何十億という衆生が疑問に思う。

そこで、大菩薩を代表して文殊菩薩が、お釈迦さまの心の中を推し量ったときに「惟忖」という言葉が出てくる。

お釈迦さまの心の中を、私ごとき愚劣なものが述べるなど、まことに恐れ多いことである。けれども、こうしてみなさんが、疑問を抱いているのだから、あえてお釈迦さまの深い心を推し量ってみたい、と。

お釈迦さまは、いまからものすごい教えを説くのだ。その教えとは、如来がずっとあたためていた、究極のものである。悟りを求める者のための教えである。その教えを、まさに今から説こうとされるのだ。その名を「妙法蓮華」という。

……さあ、はじまるよったら、はじまるよ。と、そんなふうにして、『法華経』の一大スペクタルが展開されていく。