過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

漢文と日本仏教(5)親鸞

文と日本仏教(5)

インドにはじまった仏教が、中国において漢訳され、それが日本にきた。日本にあっては、漢文を訓読するときに、漢文の文法構造を解体して、独自に「本覚思想」を展開してきた。日蓮道元について書いたが、今回は親鸞

浄土教が依拠する経典は「大無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」である。親鸞は、「大無量寿経」を中心にしている。そのなかで、法蔵菩薩が四十八の誓願を立てるところがある。そのなかで、第十八番目がとりわけたいせつ。

そこには、こう述べられている。「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」(もろもろの衆生、其の名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念し、至心に回向し 彼の国に生まれんと願ずれば、即ち往生を得て不退転に住す。)

こういう意味だ。あらゆる衆生が仏の名号(南無阿弥陀仏)を聞くと、信心がおこって歓喜する。その時、たった一瞬でも、心の底から浄土に生まれたいと願う。そのとき、浄土に生まれることが定まるし、その心はもはや退くことはない、と。

これが普通の読み方だ。これを親鸞は、こう読む。「至心に回向し」とあるのを「至心に回向したまえり」と。衆生が至心に回向するのではない。主語は、阿弥陀如来であって、阿弥陀が至心に回向されるのである、と。

戒律も修行もいらない。ただ、信じるということによって救われるとされる浄土教であるが、「信じる」ということですら、自分の力ではない。「如来からたまわりたる信心なのだ」と親鸞はいう。

わたしたちは、もうどうしようもなく無力なのだ。信ずるというはたらきですら、阿弥陀様のはたらきによるのである、と。その無力さ、どうしようもなさの自覚がたいせつなんだよ、と。がんばって修行しようとか、思索を巡らせようとか、そういうこと自体、すでに浄土の道を閉ざしてしまうことになるのだ、と。

親鸞はとても難しい。道元言語哲学とはちがう意味で、難解中の難解。頭じゃわからない。如来のほうから、わたしたち衆生をすくい取ってくださる、如来によって救われている、すくい取ってくださるのだ、といわれても、実感として伴わなければ観念論になるわけだし。