過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

漢文と日本仏教(4)道元 悉有は仏性なり

漢文と日本仏教(4)

インドにはじまった仏教が、中国において漢訳され、それが日本にきた。日本にあっては、漢文の文法構造を解体して、独自に本覚思想を展開したという話を書いてきた。日蓮について書いたが、今回は道元

その主著『正法眼蔵』は、世界一難解な書物だと思う。ぼくには、まったく意味がわからない。だが、わずかに言葉のはしはしにすごみが伝わる。道元の透徹した境地が基底部に振動している。そこは微かながら感じとれる。

漢文の文法構造を解体して、独自な思想を展開するのは、道元がいちばん飛び抜けている。その例はたくさんあるが、「仏性」の巻をみてみよう。

『涅槃経』に「一切衆生悉有仏性」(いっさいしゅじょう・しつう・ぶっしょう)とある。「一切衆生はことごとく仏性あり」とよむ。ひとはみな仏性(仏になる可能性)をもつという意味だ。ひとしく仏性があるので、ちゃんと発心して修行すれば、やがて仏になるということを示している。

これを道元は展開する。「悉有は仏性なり」と。「悉有」(ことごとくある)という副詞と動詞をまとめて「名詞」にしてしまう。一切衆生が主語ではなくて、「悉有」が主語になる。

どういうことかというと、「悉有」すなわち、全存在、存在するものすべてが、仏性であるというのだ。風も石も土も、空気も、植物も、もちろん人間も、すべてが仏性である、仏である、というのだ。

そうなると、風が吹き、川が流れ、木の葉が揺れ、小鳥がさえずる。そうした、渓声山色の音声、振動すべてが仏であり、仏の説法である、と。

じゃあ、すべてが仏であり、わたしたちも仏であるなら、修行する意味ってなんだ。ということになる。そうして、道元は、「達成すべきものとしての仏」などないのだ。修行それ自体が仏なのだ、そういう展開をしていく。これを「修証一如」という。プロセスそれ自体に悟りが含まれている、と。