過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ガチャマン景気

先日、妻の乳腺炎の治療のために助産院に行く。つぎから次へと、子育てのお母さんが来院。ぼくは中に入れないので、あたりを散歩する。

見慣れぬ土地の散歩は楽しい。おや、インド料理屋がある。ここの家の花をいけるプランターがいい。クラシックカーの部品を取り付ける工場がある。

近ごろは、リュックにしたので、これがラクだ。いろいろ閃くのでメモ帳を片手に歩く。馬込川沿いに、大樹がきれいに剪定された屋敷があった。ふらりと敷地に入って、感心して樹を眺めていた。すると、中からおばさまが出てきて、野良猫たちにエサをやりだした。

「こんちわー。庭木がすばらしいので、感心してみていました」と言うと、そこから立ち話。このサクラは、福島の三春の滝桜から、これはヤマモモ、これは渋柿と説明してくれた。剪定だけでも30万円もかかるという。

敷地に古い建物があった。「あれは?」と聞くと、女工さんたちが暮らしていた家だという。「へぇ、女工さん。なにをされていたんですか」「紡績工場だったのよ」「それは、なかなか繁盛したんでしょうね」「そうよ、むかしはガチャマンといって、儲かった時代があったのよ」と。

「ガチャマン」。はじめて聞く言葉だが、あとで調べて分かった。織機をガチャンと織れば、万の金がはいるといわれた。昭和25年頃から、繊維関係の会社が繁盛したのだ。「ガチャマン景気」とか「糸へん景気」と呼ばれた。

どうしてか。敗戦後の日本は極端に物不足だった。着るものもない。景気は低迷している。そこに突如、朝鮮戦争が勃発した。隣国の日本には、大特需が発生する。食糧、車両の修理、鋼材、繊維など、作れば売れるという時代になった。軍用毛布、軍服、テントなど、とくに繊維は飛ぶように売れた。

もともと遠州地方は、戦前からの一大繊維産地であった。そこへきてこの特需だ。女子工員が人手不足で、繊維工場には若い女子が溢れたという。

おかげで、織物の機会を作る会社も繁盛した。たとえば、トヨタの前身は豊田自動織機、スズキ自動車も織機の会社だ。そんな歴史を感じた散歩だった。