過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「土地の所有」について。農地と山林。

土地について考えている。「土地の所有」についてだ。大きくは「山林」と「農地」について。

まず、「農地」。古代の律令制にあっては、土地は国(王)のものであった。それが、次第に耕した者たちの所有になっていく。荘園ができたりして、大地主ができていく。

江戸時代の藩は土地を所有したというより、年貢を徴収する権力を持っていたんだと思う。庄屋などの大地主たちが、土地を持っていた(もちろん藩有地もあるが)。そうして、敗戦を迎えて、GHQの指令によって「農地開放」となる。耕さない者の土地は、小作人に分け与えられた。

つぎに「山林」。日本の国土の8割は山林だ。その土地の所有はどうなっていたのだろうか。かつては、おそらく山林は「ムラのもの」だったにちがいない。いわゆる「入会地」(協同の利用地)。個人が山林をもつということは、あったのかどうか。

ひとつの大きな変化は、明治6年の「地租改正」だ。土地に関わる税金を金銭で支払うようになる。地価の3%が地租とされて、えらいこっちゃとなる。当時の政府租税収入の約60〜80%が地租だったという。

じゃあこの土地はだれのものだ、あの山はだれの……ということになる。みんなの山林なのに、所有者をはっきりさせろ、といわれても困る。高額な税金は払いたくない。

そこで、名主とか庄屋など、お金のゆとりのある人たちに、土地の名義人になってもらう。お酒持ってみんなでお願いにいったという話もある。

そのひとたちが、山林の所有者になっていったのではなかろうか。そうして、山林の所有者となった者が、村人の許可を得ないで(法的には自分の所有地だから)、他に売ってしまうこともあったろう。村人はそれを知らないで、騒動になったのが「小繋事件」だ。

ちなみに、所有者のはっきりしない山林は、官有地(「御料林」「官有林」)となっていく。大資本に払い下げられたりした。

営林署などができて、「山官」とよばれる人たちは、サーベルを提げて一般の人達の出入りを厳しく禁じた。みんなの山、ムラの山林だったのに、「おいこら!」と追い返されてしまうことになる。

さて、敗戦になって農地が「農地開放」となっても、これらの大地主の山林は開放されなかった。そのまま山林の土地所有は、継続していった。

そうして、戦後の住宅難からの木材ブームで、山もちは大資産家となる。農地は「農地法」によって守られて開発されなかったが、山林は規制する法律がない。ので、高度経済成長期には、どんどんと開発されて宅地になっていった。山林所有者は大資産家となっていった。

……土地の勉強をすこし。頭の整理のために書いている。書くということは、あやふやなこと、なにがわかってないのか、明らかになるので、いちばんいい整理法だと思う。