過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

仏教は、方便を重ねて「あるがままにものごとをみる」ということに尽きる

ああ、暑い。これはたまらん。という日々が、ついこないだだった。もう、朝晩は涼しくなってきたよ。寒いくらいのときもある。田植えをしたと思ったら、もう稲穂が垂れている。稲刈の準備だ。

アイガモのヒナを放ったのが、ついこないだ。ずいぶんと大きくなっている。あかりは、もう一歳と一ヶ月。ずんずんと歩き出している。

時はうつろう。刻々と変化していく。現実は次々と変化していく。おなじことは、決して起きない。心も瞬時に変化する。

まことに諸行無常。現実は、リアリティは、次々と変化していく。けれども、頭のなかは、なかなか変化しない。変化を嫌う。おなじことを踏襲しようとする。現実を認めたがらない。それで、いろいろと苦労してしまう。

仏教でいうところの「救い」とはなんだろう。阿弥陀様が救ってくださる、いや大日如来だ、いや観音さまだ、いや南無妙法蓮華経だ、坐禅だ。──いろいろ教えはある。けれども、みんな方便だろう。

方便というのは、ウソということじゃない。悟りへ近づく手立て、真理に至るプロセスというような意味あいだと思う(サンスクリットのupāya ウパーヤの漢訳)。

つまるところ、仏教は、方便を重ねて「あるがままにものごとをみる」ということに尽きるのではないかと思っている。ぼくたちは「あるがままに」ものごとをみられないので、苦しむことになる。

誰かが救ってくれるわけじゃあない。救いがあるとしたら、自らが「あるがままにものごとをみる」こと。そこにこそ救いがある。「あるがままにものごとをみる」。それこそがリアリティ。観念じゃあない、イデオロギーじゃあない、教義ではない。

なるほどそうだと、しみじみと実感されるもの。ゆるぐことのない、たしかな手応え。そういうリアリティに立つということ。そこが仏教の示す道ではないかと。コオロギの鳴き声を聞きながら、そんなことを感じた肌寒い朝