過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

朝の行には静まる要素があるのだと思う

あかりは、9か月になる。つかまって立ち上がる。這い這いもはじまりそう。目が覚めたら、「なにかないか、なにかないか」とあたりを見回す。なにかものをつかむ。振り回す。口に入れる。目の前に現れるひとつひとつのものが、鮮やかで光り輝くものなんだろうな。

しかし、その〈おもり〉となるとたいへん。なにしろしばらくもじっとしていない。ベビーベッドに入れても、ひとりあそびする時間は限られている。横についていて、見守ってあげなくちゃいけない。すぐに飽きる。泣き出す。抱きかかえる。しかしまた、動きだす。そういうことの繰り返し。

今朝は、ぼくがお経をよむとき、あぐらをかいてその中にあかりを座らせた。ぼくは、お念仏にお題目。木魚を叩き、木鉦をたたく。ときに、チベットの重厚な鐘をごおーーーーーんと響かせる。

まったく静かに坐禅していると、動きだす。けれども、南無妙法蓮華経、そして南無阿弥陀仏と唱えていると、静かにしていた。ぼくの数珠を奪いとって、それであそんでいた。房を口の中に入れて吸ったり、数珠を振り回したり。それでも驚いたことに、40分以上も静かに、ぼくのあぐらをかいた足の中におとなしくしていた。

これは仏縁があるのかいなあ、と思ってもみた。いやたぶん、いろいろと、朝の行には静まる要素があるのだと思う。ろうそくの炎、インドのお香のかおり。チベットの鐘の音。そして、頭の上から倍音で響いてくるお父ちゃんの声。そんなことが新鮮でなにか落ち着いたものを感じさせたのかもしれない。しばらく、毎朝、一緒にお経をよみお題目や念仏、真言を唱えてみようか。