過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラ長老の講座「瞑想について」

スマナサーラ長老の講座の司会とインタビューを務めながら、原稿作りをしているところ。すこしずつアップ。今回は、「瞑想について」。予備知識が必要なので、わかりやすく書くのは、とても難しいところで、いま停滞中。
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瞑想の実践でうまくいかないのは「解脱してやるぞ」「悟るぞ」などと、目的をもってやるからなんです。瞑想は、──いまの瞬間のことを正しくやること──につきます。それができていれば、やがて富士山の頂上にいっているかもしれません。しかし、頂上を目的にすると、失敗するのです。

瞑想会に参加する人には、悟りたいというような気持ちもなく、なんとなく来た。おもしろそうだから来たんだという人がいます。その人は、仏教の予備知識はないので、比較するための概念もない。ひとつひとつが新しい経験で、新鮮です。そんな人がうまくいきます。瞑想はかなり進んでいくのです。

ところが、経典を学んでから瞑想しようという人がいます。経典を読んで覚えておいて、その通りにやるぞというと、ほとんどうまくいかない。ひとりも成功していないでしょう。

それは目的をもって、概念をいだいて実践してしまうからです。頭のなかで妄想概念をためて瞑想しても、うまくいきません。

経典には、たとえば「第一禅定」とはこうだと書かれています。その言葉を読んで「第一禅定に入ってやるぞ」と意気込んで瞑想したとします。しかしその人は、わかったつもりであって、第一禅定がなんなのかはまったく知らない。いまの自分のレベルの五感の知識で理解しているだけのことです。知らないのに、勝手にこうだと思いこんで追い求めているのです。

経典には瞑想の境地の一つに「喜悦」という言葉があります。その言葉をみたら、わかったような気がする。それは日常の自分の経験から判断しているんです。その喜悦は、瞑想のなかの喜悦とはまったく違う。それはもう、ハチミツを舐めたことのない人にいくら語っても、その味はわからないようなものです。

極端にいうと、解脱に達するためにはなんの知識もいりません。坐ってくださいといって、坐れるほどの能力があれば十分です。とにかく、生きているならば、できることなんです。いたってかんたんなことです。雲の上の話じゃないんです。しかし知識がたくさん詰まった人には、かなり難しい。そのことが、ハンディになってしまうんですね。

ということで瞑想には経典は必要ないんです。では、経典はどういう時に役に立つのでしょうか。実践して進まなくなった、足を引っ張られるような気がする。そんなときに経典をよめば、そこにちゃんとアドバイスがあるんです。修行が引っかかるとき、修行していてどこまで進んだのかというとき、経典が助けになるんです。

瞑想の実践というのは、「いまの瞬間のことを正しくやること」です。そして、別の点からいうと、とにかく「体の感覚を観察すること」なんです。

たとえば、どのようにして怒りが起きてくるのか、そのことを自分自身においてよく観察してみるのです。

自我というものは、体の感覚から生まれるのです。そのことを、身体においてよく調べてみる。まず自我があるという感覚がある。わたしが偉いという意識が生まれてくる。他人と差が生まれてくる。そして対立が生まれてくる。怒り、嫉妬、憎しみ、あらゆるものは、そこで連鎖反応で限りなく生まれてくるんです。成功しなくてはいけない、人に負けられないとか、あらゆる問題が起きてきます。ストレスが生まれます。それが高じて、自我は自滅状態になってしまうんです。そのことを瞑想の中で、みていくのです。