過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラ長老の講座の司会を

月月一、上京してスマナサーラ長老の講座の司会をしている。お話を聞き出して、それをもとにして本を作る。たとえば、こんなお話。ほんのサワリの部分。

生きることを学ぶこと。それこそが、仏教。生きることを学べば、すべてを学んだことになる。自分の生きかたから、いくらでも学べる。生き方を知っている人 は、すべてを知っている▲仏教を学ぼうとして、分厚い本を読んでも、知識が増えるだけのこと。生きることは、本を読まなくてもいい。どんな人からも学ぶこ とができる。お年寄りからも、子どものちらっと言ったことでも、人生を学ぶ。

ブッダは、世界の〈はて〉はどこにあるのかという問いに対して、この自分の身体の中にすべてがある。世界は自分の身体の外にあるのではない、とこたえている▲わが身体を通して、生きるということを学ぶ。自分の身体がなんでも教えてくれる。それがじつは、仏教そのもの。

どういうことか。わたしたちは、つねに不安がある。生きていくうえでの不安。死に対する不安。商売繁盛するか倒産するのか、わからない不安。病気になるの かどうかという不安。そして、さまざまな期待と願いがある▲どうして不安があるのか、どうして期待があるのか。そこを学んでいく▲わが身体において生きる ということを学んでないと、どうしてわたしの運命はこうなのか、とか、悪霊がついているのではないか、罰が当たったのではないかと、原因を外に求める。自 分が被害者となって、あれこれと考えて深みに入って抜け出られなくなってしまう。

仏教を学んでいけば、すべてが無常だということがわかる。先のことはわからない。物事というのは先がわからないんだから、そんなものだと思える。だから、 どんなことがあって、ああなるほど、で終わってしまう。あれやこれやと原因探ししたり後悔して悩み苦しみに陥ることなく、次の手が打てる▲人生をよく見て みると、夢や願いをもったからといって、かならずかなうわけではないことがわかる。ひとつの期待が叶うと、ひとつの期待が潰れている。人生には、叶うもの もある、かなわないものもある。そんなものだから、もっと生き方を学んでいこう。それが正真正銘の仏教だ。