過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「大草流古典諸礼式」の総師範という方が来られた

三河地方に伝わる「大草流古典諸礼式」の総師範という方とお会いした▲大草流古典諸礼式は、「大草流庖丁道」ともいわれ、神に捧げる供え物の料理作法=祈りの神事だ。魚、鳥、野菜などを庖丁刀を使い、一切手を触れることなく捌く。装束は、衣冠束帯であったり、山伏スタイルであったり。密教修験道神道とも深い関わりがある。

昨日、豊橋市から藤原さんが、土師一嗣(はじいっし)さんをお連れてして下さった。藤原さんとはFacebookつながりだ▲お経はほんらいは讃歌であり、内容よりも声の響きがたいせつ、という話をさせてもらった。こころみにサンスクリット語でインドのお経をよむと、深く共感していただいた。

そして今朝、お電話を頂いた。「わたしはもう80歳になって、先がありません。あなたと是非、コラボをしたい。あなたがお経と祝詞をよんで、わたしが包丁式の神事を行う。そういう催しを企画していただけませんか」と▲「山へかえろう。海へかえろう。川にかえろう。縄文にかえろう」そんなイベントにしたいと、土師さんは言われた▲かつて、インドの聖典バガヴァット・ギータをサンスクリット語でうたい(この時は、東大の先生)、ヴァイオリニストの金子飛鳥さんが演奏し、みんなが瞑想して踊るというイベントを主催したことがある。こうした異業種の出会いは、なにが起こるかわからない。神も仏も、日本もインドも和合・親和するイベントだ。ちょっとおもしろいことになりそうだ。

「大草流庖丁道」について、岡本太郎はこう述べている▲「大草の包刀式は久々の、血の通った伝統のような気がする。たしかにこれはあまり優雅ではない。洗練されてもいないはずだ。 しかし生(なま)である。生きている。活きている。多分それは受け継がれたというより生きんが為にここまで来てしまったのであろう(中略)「願い」である。「祈り」である。 ひたすら平和を祈って、たぎるような何か、爆発を秘めた謹厳さ、とでも云おうか、言葉通りそれが大草の「奉禱」であってほしい。」
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