過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

白川静のbotから

Twitterは、自分でつぶやいたり、人のつぶやきを読むものと思っているひとが多いと思うけど、ぼくは「検索」に使う▲いろいろな事件の速報、世界のニュース、あるいは限定された地域の情報など、Twitterが一番はやい▲それから、気分転換にbotを読む。きょう見つけたのは、古代漢字学の白川静bot。なるほど、うむうむと、含蓄のある言葉がたくさんある。たとえば、こんな言葉に接すると、イマジネーションが湧いてくる。

遊ぶものは神である。神のみが、遊ぶことができた。【游】は絶対の自由とゆたかな創造の世界である。それは神の世界に外ならない。この神の世界にかかわるとき、人もともに遊ぶことができた。神とともにというよりも、神によりてというべきかも知れない。

古代の人々にとって、死は再生であった。夜の森に、眼を光らせて出没する鳥獣は、姿をあらわすことを拒否する、霊の化身であった。時を定めて大挙して湖沼を訪れる鳥たちは、故郷を懐かしむ死者たちの、里帰りである。

最初に様式が成立した時がね、いちばん充実しとる。これはもう、生まれ出るための総ての活力が籠められておって、ようやくその表現を見付だして、ぱっと出て来たという。だからいちばん力強くて立派。

絶対は対者を拒否する。しかし対者の拒否が単なる否定にとどまる限り、それは限りなく対者を生みつづけるであろう。対者の否定とは、対者を包みかつ超えるものでなくてはならぬ。有に対する無は、またその対立を超えた無無であり、さらにそれを超えた無無無でなければならぬ。