過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

地元ではありあまっていて無価値なものを

地元ではありあまっていて無価値。しかし、ところが変われば宝のようになるものもある▲引佐や三ケ日の方に行くと、ミカンがたくさん木から落ちてほうっておかれている。地元の人はミカンは買うものではなくて、もらうものだという。信州の友人は、リンゴは買うものじゃなくて、もらうものだという。この山里は、お茶はもらうものと思っているかもしれない。

うちの栗もキウイも、ありあまって処分に困る。みんなに配るのも、これまたたいへん。ということで、放置状態▲こういった処分に困るほどありあまっている地元産品をうまく流通できたらいい。しかし、販路がないね。また集荷して配送して販売となると、かなりの手間だ。野菜や果物などは保存が利かないから、難しい。

近くの気田川には流木がたくさん流れてくる。樫の木、山桜など、しっかりした広葉樹が、川の水と岩に揉まれてすり減らされて、美しい造形となっている。生花やインテリアになりそうなものがある▲また、杉の間伐材など、いくらでも放置してある。「たんころ」にすれば椅子になったりテーブルになったり、インテリアになる▲竹もそうだ。いたるところ放置竹林で、困っている。切れば、いろいろな素材に使える。こういったものも、都会に持っていけば高く売れるだろうなあと思う。

そのうち軽トラに積んで、東京で売ってみようかと思ったりする。ぼくが長年暮らしていた国立市などは、高値で売れそう。また、吉祥寺の井の頭公園の池の周りで販売してもよさそう▲あるいはネットで販売もできると思う。けれども、配送とか梱包とかを考えると、なかなか厄介。いろいろと、考えたりするが、現実的にはやはり難しい▲ありあまって無価値になっているものを、価値あらしめること。そこはおもしろい。なにか、いい方法があるかもしれない。