過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

時間と空間の話

わがやは掘りごたつなので、炭の暖かさはまことに心地よい。テレビを見ていると、つい、うとうとと居眠りする。ほんの数分でも深く眠ると、気がついたとき、まるで1時間も2時間もたったような気がする▲また、ドライブしていて、猛烈に眠いとき、車を止めてシートを横にして少し眠る。気がついたとき、ほんの数分でも、随分と時間がたったように感じる▲こうしてみると、どうも「客観的な時間」というものは、存在しないんだなあと思うことがある。

時間の次は空間のはなし▲目をつむって歩いてみると、五感が研ぎ澄まされてくる。それまで感じられなかった、風の動き、空飛ぶ鳥の鳴き声や羽ばたきの音で、鳥たちの移動がわかる。樹々の香り、川の臭いが感じられる。目を開けていたときと、ちがった世界がたちあらわれる▲盲目の知人は、雨が降ると嬉しいと話していた。雨音を聞いていると、物の位置がわかるという。トタン屋根に落ちる雨音、車の屋根に落ちる雨音。音の響きによって、その物の位置関係がわかる、音によって空間の広がりが感じられるという。

世界というものは、時間と空間で構成されている。それら時間も空間も、どうも客観的なものではなさそうだ。あるいは、だいぶアヤしい▲ちゃんと存在していても、それを感じとる自分の認識力、識別力、consciousness(コンシャスネス)がともなわなければ、存在しないのだろう。また、感じ取る力によって、世界は随分とちがってたちあらわれてくる。

そうして、そういう時間とか空間とかを認識している、肝心の「自分」という存在。そのあたりも、じつはかなりアヤしいのかもしれない▲まあ、このあたりを仏教では、「諸法は空」だとか、「諸法は無我」だとか、「唯識」だとか、いうのかもしれない。