過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

延命でもなく、そうして看とりでもない

いまうちのネコは逝きそうで、もうほとんど食べない、日向ぼこと電気毛布で寝てばかり。もう看とりケアに入っている▲今朝はSkypeで介護の仕事をしている友人と話した。かれは夜勤明けで、これから寝るのだという。下の世話もあるし、看とりもあるしたいへんな仕事だけど、もう慣れたという。いろいろと患者さんを接していて、看とりが難しいねというはなし。

看とりまでできる介護施設はすくない。そろそろ危ないというと、病院に搬送される。病院は看とりの場ではないので、延命処置をする▲酸素吸入機をつけたり、栄養を入れる管をつけたり。「手を尽くします」と医者は言うので、家族は「お願いします」と同意する。その延命処置が、しずかに息を引きとろうとする本人を苦しませることになっても……▲「もう延命処置はいなくていいです」とはいいにくい。自分が親の死への引き金を引く当人にはなりたくはないし。

しかし、こうした延命処置は、意味があるとは思えない。医者は「一分一秒とでも長らえることが使命です」みたいなことを言う。しかし、手を施しても、もう本人は静かに逝く用意をしているのだ。それを無理やり不自然に、心臓を動かそうとしているようにも思える▲これって延命でもなく、そうして看とりでもない。そんな状態がつづく……。やがて臨終ということになると、医師は心電図を見て、心臓マッサージをしたりする▲「手を尽くしましたが、ご臨終です」ということになるのだろう。安らかにしずかに家族に見守られながら死に逝くのは、難しい。