過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

静かに満足して逝くにはどうしたらいいか

母の看取りをしたのは、二週間前だ。母はほとんど食事をせず、一日にスプーンに3口、5口程度。末期にはほとんどなにも口にしなかった。点滴で栄養をつないでいたが、やがて針もとおらなくなり、点滴もやめた▲どこが痛いとか、どこが苦しいということもなく、静かに衰弱していった▲母は、このまま静かに逝きたいのだろうと思っていた。余計なこと、ムダなことはしてくれるな。いまは安らかな境地なんだから、と。

ぼくはこのまま逝くんだね、いい人生だったね、という思いを込めて、枕もとでインドの歌、日本の唱歌、そしてお経をいつもとなえていた▲ちょうど雲間から太陽が輝きだしたとき、母は息を引き取った。朝の8時だった▲ロウソクの炎がロウを燃やしはてて、ふうっと消えるような感じだった。こうして静かに安らかに息を引きとった母を思うとき、いま心には重たさがない。

こういう看取りができたのは、幸いだった。病院ではなくて、介護老人保健施設(はるのケアセンター)だったからだと思う▲そこは窓から、もちの木が見える個室で、とても居心地がよかった。漢方の専門医の先生は、ムダな薬など使わなかった。おおらかな大人(たいじん)風な人で、その方の波動のためか、看護師やケアされる方も、みんなやさしく穏やかだった 。

いまの時代、こうして静かに逝くことは、なかなか難しいと思う▲死にそうになったとき、救急車で病院に担ぎ込まれる。すると、バタバタと延命治療がはじまるのだろう▲いまの医学は「1分1秒でも永らえる」ことをたいせつにしている。それは、物理的に心臓が鼓動し、脳波が動いている状態を延びさせていることでもある。▲そのために、点滴、酸素吸入器、あげくは心臓マッサージやら人工呼吸器を使うのかもしれない。これでは、静かに逝けそうにない。

自分としては、野垂れ死にだったり、誰にも看取られずに逝ったとしても、それはそれで悔いはない▲まあしかし、静かに満足して逝くにはどうしたらいいか。つね日頃、心がまえはもっておかねばと思う。