過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

浄土真宗本願寺派の梯實圓和上のおはなし

そのお顔を拝見して、ああ、すてきだなあと思った。浄土真宗本願寺派の梯實圓(かけはし・じつえん)和上。YouTubeで講話を聞かせてもらったが、なかなかよかった。その名前だけは知っていたが、内容が難しいので敬遠していた▲真宗の教えは、門外漢のぼくにはむつかしい。なにしろ、はじめから救われているという教えだからね。如来によって、すでに救われている自分に気づき、その報恩感謝の響きがお念仏という。これは難しい。ま、教義はともあれ、そのお顔がいいのでご紹介。おはなしの一部をテープ起こししてみた。以下。講話の内容。

できるだけ簡素にして、簡素な人生を生きたらいいんだから。すこしずつふるい落としながら生きていけばいい。そうおもて、わしは生きているけどね。
3年前には気がつかなかったけど、いまになってありがたい言葉だったんだなあ、10年前に聞いたときにはなんともなかったけれども、いま聞いてみるとこの言葉はありがたいなあという。そういう気持ちが起きたとき、それだけ成長しているじゃないですか。3年かけて成長した、10年かけて成長した。そうやって死ぬまで育ち続けていく、そういう人生がある。それが仏法を聴聞しながら、仏法によって育っていく。その年相応に育てられ続けていく人生でしょうね。

「死なば浄土にまいりなん」(法然上人の教え)死ぬということは終わりじゃない。新しい人生、悟りの生のはじまりだ。仏陀としての生涯の始まりだね。死ぬんじゃなくて、生まれていくんだ。それを「往生」といわれていますんや。これ、ええ言葉でんなあ。悟りの領域に生まれていくんだという。そういう人生観というものをもつ。その人には、死はないねえ。死なんか存在しない。生まれていくということがあるだけだ。この世に生まれてきたのが誕生。お浄土に生まれていく、これを往生という。わたしの中には死は存在しません。と、こういって言うてみたらどうですか(笑

生と死を超えたということは、生と死もなくなったんじゃなくて、生と死を全うすることができるわけです。死ぬことがムダなことじゃない。死ぬことに豊かな意味がある。これが「生きらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん」(法然上人の教え)という。「とてもかくてもあるべし」死んでも生きても、どちらを向いてもありがたいことだといわれている。死生ともにわずらいなし。そのように法然上人は言われています。

親鸞聖人はね、そうなんだけど、親しい人と別れるのは寂しいなとおっしゃる。これがいいわーー(笑  死ぬのが嫌だというんじゃなくてね、親しい人と別れていくのは寂しいことだよな、だから人生の名残りをしっかり惜しんで、一日一日を大事すごさせてもらいなさいや。そういう言い方が御開山(親鸞聖人)でしょうね。その中でお念仏がどう私を育て、私を導き、目覚めさせるか。

浄土っていったいどこなんだというと、念仏が出てきたところ、念仏の郷だ。仏様の悟りっていったいなんだというと、悟りが声となって聞こえておる。それが、念仏だ。浄土とはそういう無碍の光がみなぎっている領域。そのなかでは捨てるものはひとつもない。すべては光り輝いている。と、仏様の目からご覧になったら、見えるんだろうな。ああ、そのうちに見える。もうすぐや(笑  

わたしたちからみたら、あれはつまらん人や、つまらんことやとみえるけど、如来様の光が現れたら、どなたも光りかがやく。如来の子として輝いている。そういことなんでしょうね。ほんとにみなそうなんでしょうね。それを自分勝手に利害損得で様々な姿を描き出して、自分の妄想に迷っているだけのことなんだ。それがすきっとなったらどうなるか、天地輝く、すべてが光りかがやく。仏の世界として光りかがやく。そういう世界をほんまは生きている。わたしたちは、別のものになるんじゃない。ほんらいの姿で光りかがやく。それが浄土の世界。また、こんど光りかがやく世界で会わせてもらいましょう。きょうはこれでおわります。