ブッダはこう言っている。そんなことは、お釈迦さまは言ってない、などと断言する方がいる。ぼくはそういうふうには、言えない▲だって、ブッダに出会ったことはないから。ブッダが実在したとしても、その教えが経典にただしく伝えられているかどうか、だれにもわからない。だからぼくは、ブッダのことを知悉しているかのように、他人に断言することはできない。
そもそも、ブッダの教えとして伝えられている経典は、それこそ八万法蔵というくらい膨大にある。しかも、その内容も、互いに矛盾しているものもある▲さらに、教えが文字として残されたのは、ブッダの滅後100年くらいは経っててからだという。それまでは、口承である。大乗経典など、滅後200から500年くらいしてできたりする▲そういうものが、ただしくブッダその方の教えを伝えているかどうか……。
また、今日、直接に出会った人のことをただしく伝えるのも難しい。ぼくはいろいろな人に出会ってインタビューして本にする(ときにその人になりきって書くことも)ことを仕事にしてきた。なかには著名で高徳なお坊さんとか、おられる▲で、本にするときには、「いいところ」だけを書く。これはどうかな? ちょっとヘンだな、というところは外す▲本というのは、ありのままのその人すべてに現れているわけじゃあない。実在の人と本に述べられていることとは、わりとちがうものが多い。
そんなぼくの体験から、ブッダにせよイエスにせよ、経典やら聖書やら、それがその人ご自身のありのままの教えかどうか、なかなか難しいと思っている▲では、どういう立場なんだと問われると──。経典も聖書も、そのまま信ずるのではなくて、自分がそのように実践してみて、「なるほどその通りだ」と、身体でたしかにつかんだものは、人に対して言える。そんなふうにして、聖典に接している。