過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

瞑想は、「いま・ここ」に徹すること

瞑想というと、どこか別の世界に行くようなイメージがある。たとえば、光の世界だの、浄土だの、神霊の世界だのに行くという瞑想もある。あるいは、なにかシンボルをイメージして集中する方法もある。それはそれで、とても心地よい深い体験になる。▲だが、ぼくが行っている瞑想は、「いま・ここ」に徹することだ。どこか別の世界に行くのではない、「どこにもいかない」。つねに自分の身体と共にある瞑想だ。

なにしろ日常生活では、「いま・ここ」にいないことが多い。先行きを心配し、過去を悔やんだり、いまやっていることと別のことを考えたりする。▲頭と身体の動きがバラバラだ。身体を離れて思考だけがさまよう。頭だけ肥大して、あれこれ考えたりしていることも多い。

瞑想というのは、「いま・ここ」に戻ること。だから、瞑想するとき「どこにも行かず」。終わっても「どこからも帰ってこない」。だって、つねに「ここ」にいるからだ。▲そのためには、呼吸から離れない。身体から離れない。つねに身体のリアリティを感じていることがたいせつ。それがないと、思考の妄想の世界にかんたんに行ってしまうからね。

ほんとうは、わざわざ瞑想という特別なことをしなくても、日常が「いま・ここ」として暮らしていけば、すばらしい。▲食事も掃除も雑用も、立つことも坐ることも、歩くことも。ありありと身体性を感じていれば、瞑想となる。でも、なかなかそれは難しい。▲ので、ふと訪れたとき日常の合間に、「いま・ここ」の瞑想をおこなう。それは、どこでもできることだし。それによって、思考の渦はリセットされて、身心のエネルギーが補給されるような体感が、すこしずつ得られていく。