過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

断食死・即身仏コースも

ひとり暮らしなので、ぼくが死ぬときは「孤独死」だと思う。まあ人は、みんな孤独死というか孤立死だけどね。▲でも、死に至るまでの過程は大切にしたいな。胃に穴をあけての栄養補給やら、人工呼吸器で永らえて、病院で死を迎えたくない。▲突然死がいいのかもしれないけど、なかなかそうもいかない。で、かねがね思っているのは、断食死・即身仏コースだ。徐々に五穀を絶っていって、木の実と水だけ、やがて水だけで枯れて死んでいくんだ。

これまで2週間くらいの断食経験が二度あるが、そのときの精神は快活、静寂、爽快、透明、まことにさわやかな日々だった。だから、そういう境地で死を迎えられたら最高かな、と思っている。▲インドを旅していたとき、聖なるガンジスが流れ、宗教的なエネルギーに包まれた聖地で、マントラをとなえながら死を待つ人たちの家があった。死んだら薪で焼かれて灰となってガンジスに流される。ただ、ものすごい喧騒の地だったけどね。あれも理想的だな。

ぼくはどこか静かな山の奥、清流の流れたところで、庵を結んで断食して死んでいくってのが、理想かも。▲で、そういう施設があって、瞑想したり、お祈りをしたり。そんな即身仏で死んでいく施設があるといいかなあ。ぼくは、お墓なんかいらないし。焼いてくれるとしたら、灰はこの山里の気田川に流してほしいかな。