過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「考える」とは頭の中での無用なお喋りか


自分をよく観察していると、心と体がバラバラだということがわかる。いまやっていることに心が入ってない

それは、別のことを考えているからだ。本を読んでいて、食事をしていて、人と話していて、別のことを考えている。

だいたい、いつでもなにか考えている。そして、考えというものは瞬時に浮かぶ。たった一秒間でも、考えることを言葉にしてみたら、すごい量になろう。眠っているときだって、考えているにちがいない。

「考えている」というと、生産的な深みのあるように聞こえるが、「頭の中での無意味なお喋り」「どうでもよいことの妄想」といったほうがいいか。

ああしたらよかった、ああ心配だ、疲れた、あいつはけしからん──ドミノ倒しみたいに次々と、ある考えが次の考えを呼び起こし、そしてまた次の考えを呼ぶ。えんえんと終わらないゲーム、轍にはまりこんだような、とりとめのない精神活動である。

こうした「考える」ことに、膨大なエネルギーが使われている。エネルギーを浪費し心身を疲れさせている

「よく考えよう」「じっくり考えるぞ」などというとき、たいした考えは出てこない。

むしろ、考えないときのほうが、生産的なことが起きる

なにかに打ち込んでいて無心になっているときに、ふっと生産的な閃き、問題を解く糸口のヒントが浮かぶことがある。

※スケッチは、目黒の五百羅漢寺 覚醒した仏たちはあれこれと想念はおきないのだろうか。