過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

三十棒打たれる

「道(いい)得るも三十棒。道(いい)得ざるも三十棒」

警策(打ちすえる棒)にそう書かれている。大森曹元老師の筆だ。参禅した臨済宗国際禅センターの玄関にかかっていた。

答えようと答えまいと、打って打って打ちのめす! あれこれと余計な考えを止めよ、三十棒をくらわすぞ! それほどの意味か。

中国に徳山という坊さんがいた。かれは堂に現れる時、必ず長い棒を携えて、「道い得るも三十棒、道い得ざるも三十棒」と言う。これが徳山が弟子達に教えたことのすべてで、これ以外は何も言わなかった、という。

実際に、参禅しているとき、都合、三十棒は思い切り叩かれた。右肩に三発、左肩に三発の六発がワンセット。これが、一日に、三、四度はやられる。

初めて打たれたときは、「な、なんだこれはーーーーー」と、ものすごい激痛が走った。その衝撃が全身にくまなく轟くほどだ。一瞬、気が遠くなりそうなほどであった。打たれたアザは一か月ちかくはとれなかった。

坐ると、この警策がおそろしい。しかし、ありがたいのだ。打たれると全身の細胞が目覚めたようになる。しっかりと意識を目ざめて坐ることができるようになる。

わたしなど、生意気だったので、「こいつたたきのめしてやろう」ということもあったろう。とくに打たれた。あとで、その坊さんから、「見込みがある。どうだ弟子にならんか」と言われたのであった。