過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ダージリンへの旅(4)──チベットのの難民たち

カルカッタから列車で13時間、バスで5時間かかった。ここダージリンは、ヒマラヤのふもとにある。イギリスの植民地時代、避暑地として開発された町だ。紅茶は世界的に有名だ。チベット人、ネパール人、ベンガル人、シッキム人など多様な人々が暮らしている。

チベット人の経営するゲストハウスに宿をとり、ちかくのチベット難民センターを訪問することにした。難民が絨毯や衣類などを織って自活している。作業所には、ダライラマの写真と「ワーク・イズ・ワーシップ」(働くことは礼拝だ)の言葉、中国のオリンピック反対の標語が掲げてあった。

センターの責任者から、いかに中国がチベットの文化を破壊したか、どれほどの人が殺され寺院が破壊されたかを聞かされた。

1949年、中華人民共和国が建国されると、中国はチベットの平和開放を宣言した。51年、人民解放軍がラサに侵入した。そのときの様子をダライ・ラマはこう述べている。

「村々や寺院は完全に破壊された。僧侶や俗人指導者はたちは屈辱的な扱いを受け、投獄され、殺害され、拷問さえ受けた。土地は没収された。聖なる仏像、経典、その他、私たちにとって、神聖な意義を持つ物は、すべて破壊され、さげすまされ、または、いともかんたんに盗まれた。ポスターや新聞には、宗教は人民を搾取する手段に過ぎない、釈尊は反動的保守主義者であるという冒涜的な布告がだされ、学校でも、そう説明された」(『チベットわが祖国』中公文庫)