過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「死を待つ人の家」を訪ねて(3)

施設の中には、十字架に架かったイエスの像がある。『私は渇いている』というイエスの言葉がある。その死の苦しみの中で「渇く。喉が渇いた」とイエスはつぶやくのだ。

マザーは、道ばたでぼろぼろになって死にゆかんとする者に、イエスの姿を見た。まさに、イエスが「渇いている」と見たのだ。

マザーは言う。「キリストは、言いました。食べる物も着る物もなく、住む家もない病人だった私に、あなたは食べさせ、着せ、住まわせ、癒してくれた、と。私たちの仕事は、この言葉を信じて行われているのです」 

偉大なる神は、光り輝く彼方におわすのではない。いま目の前におられる。それは、病を得て家もない、醜く老いた姿として。それこそ、渇いているイエス。その人を介護するのは、まさにイエスを介護することなのだ。そうマザーはとらえた。

けれども、カルカッタには、何百万人というホームレスがいる。マザーの活動には「焼け石に水」「自己満足に過ぎない」という批判もあった。政治に呼びかけて、大きな施設を作ったほうがいいという声もあったろう。

しかしマザーは言う。「私は決して群衆の面倒をみない。ただ一人の人だけをみるのです。もし群衆をみていたら、きっと私は何も始められないでしょう」と。

マザーは、徹底して一人に出会い、その一人に心からの奉仕をするだけ。「この小さき人々にしたものは私にしたのである」というイエスの言葉を信じて実践していった。